再びこの頃思うこと
ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議代表 立川 涼
<化学物質問題の新しい展開>
変化が常態化し、その展開も加速している。過去を総括する暇もなく、将来を展望することもままならない。何時の世でも、現状を正確に理解することは楽なことではないし、将来を予測することはさらに難しい。一年前のダボス会議では、サブプライム問題を指摘した参加者は一人としていなかったらしい。念のため付け加えておくが、地球温暖化は事実に基づいた行動の課題である。
「ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議」は、毒物のない社会を目指して、政策提言を中心に活動するNGOとして、1998年9月に設立された。それから10年、化学物質問題もその種類と毒性影響の多様化・広域化が進行している。残留性生物蓄積性の物質も、DDT、PCBといった有機塩素化合物から、有機臭素化合物、有機フッ素化合物と有機ハロゲン全般に広がり、分析技術がついていけない。ナノ物質についても、その生物影響が次第に明らかになりつつあり、その測定分析法も含めて大きな課題になるであろう。古くて新しい毒物としての有機リン化合物、重金属もある。医薬品の水質汚染とその影響、途上国における化学汚染など枚挙に暇がない。POPSに関しても新しい知見がカナダの研究者から報告されている。従来化学物質の生物蓄積性は脂溶性(Kow)で決まると考えられてきたが、肺呼吸を行う陸上動物ではKoa(オイルからの気化率)が重要な指標となることを見出し、新たなPOPS物質の追加が関心を集めている。この論文は米国化学会で2007年における環境化学分野の代表的業績とされた。
ヒトへの影響についても展開は急である。環境ホルモン問題は生殖毒性、免疫抑制、脳神経系阻害など新しい毒性を提起した。ここでは、これまでの毒性試験法の限界が明らかになり、抜本的な対応が求められている。
最近注目を集めているBiomonitoringについても書いておきたい。分析技術の進歩は急で、とくに医学・生物学分野で顕著である。血液、尿、母乳中の化学物質が網羅的に超微量まで測定が可能になり、コスト、所要時間共に低下して、ビジネスとしての可能性も開けている。しかし、分析化学がいかに詳細としてもその分析値を健康影響に翻訳するための基本的情報は十分とはいえない。ヒト一般ではなく、個人レベルの影響評価となると未開拓の世界でもある。最近、米国では、官民を挙げてBiomonitoring Equivalentsを設定するための予備的研究をアクリルアミド、2,4-D、カドミウム、トルエンの4物質を対象に開始した。ヒト一般から個人別テーラーメードの分析と診断への動きは化学物質毒性問題の大きな転機になるかもしれない。
<科学が答えられない世界>
化学物質の安全問題は、これだけ多様化、広域化、多相化が進むと、改めて科学技術の可能性と限界が問われてくる。専門家は特定の分野は承知していても、その科学技術の広い社会における評価について専門家とは限らない。専門家は識者とは限らないのである。米国オークリッジ研究所の所長を長年務めたアルビン・ワインバーグが1972年に創出した「トランス・サイエンス」という言葉は示唆に富む。
中島秀人氏の紹介によれば「トランス・サイエンス」は、「科学によって問うことはできるが、科学によって答えることができないような問題群からなる領域」で、極めて発生率の低い事故などのリスク評価、社会現象についての予測、価値が入り込む選択がその三つの類型とされる。トランス・サイエンスに該当する問題では、専門家の間ですら見解が分かれることが多い。だから意思決定は、利害関係者や一般市民を巻き込んだ公共討議において行うべきとする。この領域では、科学技術に対するシビリアンコントロールが必要であるという。
<科学と政治>
もう少し生臭い話も書いておきたい。米国の学会では自然科学で博士号を取得した人物を上院議員の事務所スタッフとして送り込んでいる。政策や予算は法律に基づいて立案あるいは執行される。米国では立法は議会の役割で、積極的ロビー活動もここを舞台に行われている。議会で修行した博士はその後、大学や研究機関ではなく、学会スタッフとして、当該専門分野の政策立案や予算獲得のためのロビー活動をする。
最近号の『Nature』は巻頭論文で、米大統領選は、科学界が積極的にかかわり、幅広い議論を尽くすことで、政治と科学の関係改善のまたとない機会になるだろうとしている。ブッシュ政権下では、予算は戦争とエネルギー領域に極端に傾斜した結果、数多くの専門分野やいくつかの科学技術系官庁が危機的状況に追い込まれている。FDAやEPAは、いじめられているといいたいほどの状況である。生態学分野では歴史と実績のある大学付属研究機関が、連邦政府の補助金打ち切りにより閉鎖に追い込まれている。科学者の声を大統領選に反映することは、科学と科学者にとって死活問題であるという問題意識である。
<潮目は変わったか>
地球温暖化問題は昨年のゴア元副大統領とIPCCのノーベル平和賞受賞で潮目が変わった。日本でも、昨年の参議院選挙での民主党の大躍進は今後の政治の変化を予感させる。生産者ばかりを見ていた政治と行政が、消費者、国民の意向を無視できなくなっている。戦後半世紀以上、自民党を中心とする保守勢力が政治を独占してきた。その成果は率直に評価しなくては公正といえないであろう。憲法に守られ、勤勉な国民に支えられて、日本はここまで到達した。しかし、さすがに長すぎた保守政党の政権支配は、いたるところでほころびを見せ始めた。権力の独占は必ず腐敗する。
フィブリノゲン輸血によるC型肝炎被害者救済、アスベスト汚染への対策、消費者庁(仮称)の新設の動きなど、日本でも潮目の変化を予感させる動きがある。消費者庁では化学物質安全のための一元的管理組織も入れてほしい。
日本では法律を作ればそれでよしとした事例も少なくない。米国のEPAやFDAなどは日本の10倍以上の職員がいる。日本では官から民と流行を追うが如く、官の民営化と公務員の削減が進んでいる。米国では、民間にはできるだけ自由度を大きくしてその活性を生かすとも、民間は放置しておくと金儲けに暴走することもあるとして、官による監視と厳罰がある。日本は、責任者が三、四人並んで頭を下げれば責任は問われないという極めて甘い世界となり、原因や責任は問われることなく流されてしまう。不必要な役所と公務員は多い。しかし、公的機関でなくては果たせない仕事も少なくない。環境、教育、社会保障といった分野である。官から民の流れの中で、国民の権利を守る公の役割が放棄されて、国民の首を絞めることになっては困る。
<お金の出所は判断の手がかりとなる>
責任をあいまいにする結果として最終判断がマスコミや警察にゆだねられているのも気にかかる。ジャーナリズムがメディアに変わり、社会の批判者としての役割は低下し、民間企業として利益が問われるようになった。昨今メディアの影響は強く、世論や選挙、裁判の行方さえ左右するにいたっている。しかも時の政権は世論の喚起と誘導に大きな関心を寄せており、科学技術の分野でも然りである。化学物質のリスク科学とリスク管理は、業界と行政の側からの発想で展開してきた。国民の側に立てば化学物質の毒性や流通、使用の情報の公開が望まれるが、公開される情報には企業など使用者側のフィルターを通したものが多い。国民が真に知りたい情報は公開されないことも少なくない。もともと化学物質の開発とその利用、さらには毒性の研究に関する情報は圧倒的に生産者側にある。しかも、公表される毒性研究は毒性なし、弱いという報告は企業側からが多く、毒性ありとする報告は大学や公的機関のものが多い。立場が変われば科学的判断さえ変わる。化学物質の安全使用とその評価はトランスサイエンスの世界だとすれば、どのような立場で行われた調査研究あるいは政策であるかは、情報を判断評価する重要な手がかりとなる。研究に限らない、イベント、フォーラムなどでも資金の出所を知ることは情報の質、特に消費者や国民の立場に立ったものかどうかを判断するに役立つ。
リスクゼロはありえないとリスク科学は教える。“科学的”にそれが正しいのかもしれない。しかし、10万人に一人のリスクであっても、そのリスクを受ける一人である国民がリスクゼロを希求するのは当然であろう。リスクが予測されるものは、一般に保険制度が備わっている。化学物質にはこうした保険制度は無い。国民がリスクゼロを要求するのは当然であろう。
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